もちろん、ここでは司馬さんにとっての「小説」とは何かということである。
司馬さんはいくつかの作品の中で、小説について次のように話している。
「私における小説の概念は単純で、人間と人間における私なりに感じた課題を書くだけのことだが、この小説(「坂の上の雲」を指す)では人間と人生の一表現として戦争が出てくる。その戦争も、この小説の主題上、戦術的規模よりも戦略的規模の場で見てゆくようにしたかったのだが、その作業では陸軍のほうがやさしかった。
人間にとって、その人生は作品である。この立場で、私は小説をかいている。裏返せば、私と同年代の人間を(もしくは私自身を)書く興味をもっていない。理由は、「現代」では人生が完結していないからだ。
俯瞰、上から見おろす。そういう角度が、私という作家には適している。たとえばビルの屋上から群衆を見おろし、その群衆のなかのその某の動き、運命、心理、衆表情を見おろしてゆく。(中略)歴史小説とは、そういう視点に建っている。そういう視点でものを見ることの好きな、もしくは得手な人が、歴史小説を書くのだろう。私もそのひとりである。
資料がなければ、もはや想像するしかないがそれでもよい。想像しているだけでついに小説にならないことのほうが多いが、しかしこの想像の段階こそ私のえがたい娯楽である。」
これらの言葉から、司馬さんの作品(あえて「小説」と言わず)の背景には、現代よりも幕末や明治時代といった過去の歴史に非常に興味があり、その中で活躍した人々の「完結した人生」をみることが、とてもおもしろいということであるようだ。
司馬さんは極めて高い論理的思考の持ち主であり、くまなく史料などを検証した上で、作品を書き上げるのである。
ご本人のお気に入りの作品のひとつ「殉死」を書いたときの次の苦労話が、このことを裏づけている。
「日露戦争の刻々の、段階ごとの戦術を図に書きまして、そうやっているうちに乃木さんのやっていることがおかしくなってきまして、『おれならこうやる』といった考えが出てくるわけです。(中略)たとえば参謀などの働きのおかしさもわかってくる。そして、それが他の資料で調べたことと一致してくる。(中略)『司馬さんは職業軍人か』、と私の友人の兄さんが言ったというのを、その友人からきいたことがありますが、私はそれがうれしかったですね。私は戦術においてあやまっていなかったと思ったからです。」
ただ、場合によっては「最後はやっぱり直感に頼るしかない」と正直に言い切っているところが、司馬さんファンにとっては親しみを感じさせる、なんともうれしい言葉である。
書くことが好きな私にとって、司馬さんの次の話はとても興味深い。
「小説を書くことが苦しくなくなってきたのは今から、2,3年まえ(40歳前後)からのことです。作品では『竜馬がゆく』です。なぜそうなってきたかといいますと、私は一度書いた文章がすぐいやになって、ものすごく添削するくせがありますが、それがよくないと気づいたことがあります。それ以来でしょう。(中略)」
ある人から「添削すると意識が中断されてくるから、できるだけ直さない方がいい」と言われ、その後、司馬さんもそういう心境になったとき、その言葉を思い出して、文章を直さなくなってきたというのである。その時期は『竜馬がゆく』の執筆ころからという。
これは司馬さんだから、いや司馬さんしか言えないことだと思う。一般に、プロで小説やエッセイを書く人たちは、「推敲や添削は、できるだけ何回もしたほうが、文章の無駄がなくなり、質も向上する」と口をそろえて言う。私もいつもそういう風に教わってきた。
つまり、書くことの好きな単なる凡人と超非凡人との究極の違いを垣間見たというのが現実的な感想である。もっと端的に言えば、脳の構造の大いなる違いだろう。それしかない。
この「小説」のこともそうであるが、「エッセイ(随筆)」についても、司馬さんらしい考え方や解釈が多々あるので、ここで是非紹介しておきたい。
コラム:小説・エッセイとは?
国語辞典などでは小説や随筆をどう定義しているか興味があったので、調べてみた。
小説:作者の構想力によって、登場人物の言動や彼等を取り巻く環境・風土などを意のおもむくままに描写することを通じて、虚構の世界をあたかも現実の世界であるかのように読者を誘い込むことを目的とする散文学。読者は描出された人物像などから各自其々の印象を描きつつ、読み進み、独自の想像世界を構築する。
お役人の文章のようで、ひと息ではしゃべることができないが、なるほど・・・。ついでに司馬さんの好まない「随筆(エッセイ)」についてはどうか。
随筆:平易な文体で、筆者の体験や見聞を題材に、感想も交じえ記した文章。
これはいい。短くて、まことに明瞭である。
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