わたしの心の「ふるさと」~それは父だったのか~ 私のエッセイ雑記帳(その76)

ライフワーク研究家 中村 義(なかむら ただし)

 故郷を遠く離れて、早や56年。東京で大学卒業後、就職、結婚と、関東での生活が長く続いている。気がつくと9年前の夏には、私は父の生きた年を越えていた。

 わたしの少年時代は、戦後の貧しい生活の真っ只中を通過して生きていたようなものである。食料品の配給、闇市なども記憶の片隅に強烈に残る。進駐軍の米兵からもらったチューインガムの味も忘れられない。
 防空壕、灯火管制、枕元に破れた履物を置き、着衣のまま寝る。小さな裸電球を覆う黒い布を見上げて、毎夜を過ごす。

 紀州の城下町というと素敵な感じがするが、当時は生きていくことが大変だった小さな町の思い出が蘇える。久しぶりに育った懐かしいふるさと和歌山のまちを歩いた。何もかも小さく見える。
和歌山城内の石積みの壁をよじ登る、三角ベースの草野球、大人用の自転車で転び傷つきながらの練習、木登り、秘密基地作り、缶蹴り、かくれんぼ、夕日が沈むまで、どろどろになって遊んでいた。

 縁台将棋で駒の動かし方を教えてもらう。わずかな小遣い銭は紙芝居用に取っておく。おもちゃは自分で作るのが当たり前、小刀で指を切ることなど珍しくはない。鉛筆はギリギリまで使う、消しゴムもチビルまで。新聞紙は便所で使う。缶蹴り用の缶の確保さえも難しかった。
こんな生活でも、別に不便と感じたことはなかった。何故か分からない。みんなで生きているという実感がとても強かったのは間違いない。

父はとても器用な人だった。我が家には鳥小屋があった。鶏は大切なもの。卵は大事な栄養源、産まなくなると肉に。首をひねり「南無阿弥陀仏」と言いながら、熱いお湯に漬ける、毛をむしる。
魚は3枚におろす。見よう見まねで、一所懸命に覚えた。だから今でも、魚はさばける。
自給自足の生活、エアコンのない暑い夏、掘りごたつで暖をとる冬、狭いながらも、居場所を探してみかん箱の机で勉強した。
貧しいけど、苦にはならなかった。みんなが同じような生活だったからかもしれない。

こんな極貧状態の家庭で育ったが、本を読むことや本を買うことには、両親は何も言わなかった。本が好きだった。というよりもテレビもない時代、本は唯一の楽しみだったから。図書館でむさぼり読んだ。借りては返し、返しては借りる。

わたしの父はとても趣味の多い人であった。書、絵画、日曜大工、園芸など。
中でも、書は格別のものがあった。師範級の腕前で、多くの書を残したが、何故か子供たちにはほとんど与えていない。わたしは幸いなことに表札をもらったが。号は「寿石」、素敵だ。

父が残した自慢の一筆がふるさとに残っている。「先祖代々の墓」という達筆な墓石。自慢である。回りの墓石とは一段と違う凛とした文字が清々しい。帰郷すると、真っ先に菩提寺に行く。今も堂々と生きている字だ。父に会える。

父は子供の頃から村一番の秀才であったらしい。でも極貧の家庭だから、上級学校には進学させてもらえなかった。独学で勉強して、村役場の小遣いさんからスタートした。大水害で疲弊したまちを復興させるという大命令を受けて、助役として赴任したのが、彼のふるさと有田市である。
学歴社会の真っ只中で、この移動は知事からの直接命令であった。家族はもちろん、回りの人々はみんな驚いた。

その父の35回目の命日も、9年前に過ぎた。そして彼が生きた歳を越えた私がいる。貧しいながらも、本を買うことには文句を言わず、子供たちには自分が叶えられなかった上級学校への進学を実行してくれた。うれしいことである。感謝。

最近、ふと気がついた。本が好き、書くことが好き、器用かな、酒が好き。何だ、父と同じではないかと。
このエッセイを墓前に供えたい。「何だ、お前も大したことはないな。俺の後を追っているだけではないか。もっと勉強せい」と言われそうな気がする。
そうだ、わたしの「心のふるさと」は、父にあったのだ。これですっきりした。

おじいさん、曾お爺さんは、こういう生きざまであったことを子供たち、孫たちにしっかりと伝えておきたい。これを小さいが、素敵なプレゼントにしたい。ごく普通の庶民の生きた証であり、大切な家族の記録でもあるから。

 やはりDNAの世界は不思議である。わたしは父が好きだ。

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