「司馬さんにとって、小説とは何か」 私のエッセイ雑記帳(その79)

ライフワーク研究家 中村 義

もちろん、ここでは司馬さんにとっての「小説」とは何かということである。
司馬さんはいくつかの作品の中で、小説について次のように話している。

「私における小説の概念は単純で、人間と人間における私なりに感じた課題を書くだけのことだが、この小説(「坂の上の雲」を指す)では人間と人生の一表現として戦争が出てくる。その戦争も、この小説の主題上、戦術的規模よりも戦略的規模の場で見てゆくようにしたかったのだが、その作業では陸軍のほうがやさしかった。

人間にとって、その人生は作品である。この立場で、私は小説をかいている。裏返せば、私と同年代の人間を(もしくは私自身を)書く興味をもっていない。理由は、「現代」では人生が完結していないからだ。

俯瞰、上から見おろす。そういう角度が、私という作家には適している。たとえばビルの屋上から群衆を見おろし、その群衆のなかのその某の動き、運命、心理、衆表情を見おろしてゆく。(中略)歴史小説とは、そういう視点に建っている。そういう視点でものを見ることの好きな、もしくは得手な人が、歴史小説を書くのだろう。私もそのひとりである。

資料がなければ、もはや想像するしかないがそれでもよい。想像しているだけでついに小説にならないことのほうが多いが、しかしこの想像の段階こそ私のえがたい娯楽である。」

これらの言葉から、司馬さんの作品(あえて「小説」と言わず)の背景には、現代よりも幕末や明治時代といった過去の歴史に非常に興味があり、その中で活躍した人々の「完結した人生」をみることが、とてもおもしろいということであるようだ。

司馬さんは極めて高い論理的思考の持ち主であり、くまなく史料などを検証した上で、作品を書き上げるのである。

ご本人のお気に入りの作品のひとつ「殉死」を書いたときの次の苦労話が、このことを裏づけている。

「日露戦争の刻々の、段階ごとの戦術を図に書きまして、そうやっているうちに乃木さんのやっていることがおかしくなってきまして、『おれならこうやる』といった考えが出てくるわけです。(中略)たとえば参謀などの働きのおかしさもわかってくる。そして、それが他の資料で調べたことと一致してくる。(中略)『司馬さんは職業軍人か』、と私の友人の兄さんが言ったというのを、その友人からきいたことがありますが、私はそれがうれしかったですね。私は戦術においてあやまっていなかったと思ったからです。」

ただ、場合によっては「最後はやっぱり直感に頼るしかない」と正直に言い切っているところが、司馬さんファンにとっては親しみを感じさせる、なんともうれしい言葉である。

書くことが好きな私にとって、司馬さんの次の話はとても興味深い。

「小説を書くことが苦しくなくなってきたのは今から、2,3年まえ(40歳前後)からのことです。作品では『竜馬がゆく』です。なぜそうなってきたかといいますと、私は一度書いた文章がすぐいやになって、ものすごく添削するくせがありますが、それがよくないと気づいたことがあります。それ以来でしょう。(中略)」

ある人から「添削すると意識が中断されてくるから、できるだけ直さない方がいい」と言われ、その後、司馬さんもそういう心境になったとき、その言葉を思い出して、文章を直さなくなってきたというのである。その時期は『竜馬がゆく』の執筆ころからという。

これは司馬さんだから、いや司馬さんしか言えないことだと思う。一般に、プロで小説やエッセイを書く人たちは、「推敲や添削は、できるだけ何回もしたほうが、文章の無駄がなくなり、質も向上する」と口をそろえて言う。私もいつもそういう風に教わってきた。

つまり、書くことの好きな単なる凡人と超非凡人との究極の違いを垣間見たというのが現実的な感想である。もっと端的に言えば、脳の構造の大いなる違いだろう。それしかない。

この「小説」のこともそうであるが、「エッセイ(随筆)」についても、司馬さんらしい考え方や解釈が多々あるので、ここで是非紹介しておきたい。

コラム:小説・エッセイとは?

国語辞典などでは小説や随筆をどう定義しているか興味があったので、調べてみた。

小説:作者の構想力によって、登場人物の言動や彼等を取り巻く環境・風土などを意のおもむくままに描写することを通じて、虚構の世界をあたかも現実の世界であるかのように読者を誘い込むことを目的とする散文学。読者は描出された人物像などから各自其々の印象を描きつつ、読み進み、独自の想像世界を構築する。

お役人の文章のようで、ひと息ではしゃべることができないが、なるほど・・・。ついでに司馬さんの好まない「随筆(エッセイ)」についてはどうか。

随筆:平易な文体で、筆者の体験や見聞を題材に、感想も交じえ記した文章。

これはいい。短くて、まことに明瞭である。

posted by Ryoma21 at 21:48 | Comment(0) | 中村義「私のエッセイ雑記帳: | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

秋祭りと「なれ寿司」 私のエッセイ雑記帳(その78)

ライフワーク研究家 中村 義

私のふるさと、紀州有田の名物のひとつに「なれ寿司」がある。暑い夏の盛りが過ぎ、秋祭りが近づく頃、各家庭では、こぞって自慢のなれ寿司の仕込みに入る。
塩味をつけた新鮮な鯖を、棒状にしたご飯にかぶせ、アセの葉でしっかりと包み、重しを載せて漬け込み、気長に自然発酵を待つ。時間と共に微生物が、頑張ってすばらしい味わいをかもしだす。
口の悪い連中は、「腐れ寿司」などと言うが、とんでもない誤解である。その発酵期間の長さによって、また様々な分類もあり、たとえば「早なれ」、「なれ」、「本なれ」などと、熟成度ごとに名前がついている。
「熟れる(なれる)」とは、まじりあって味が良くなるという意味であり、まさに「なれ寿司」の名前そのものを意味する。
子供の頃からの私の大好物であり、その季節になるとご近所の各家々と交換したり、戴いたりした「なれ寿司」を味わうのが大の楽しみであった。今年は、あそこの家のが特においしかったとか、我が家のはどうだったろうか、とか喜んだり、心配したり。
この「なれ寿司」は、日本酒との相性が抜群によい。そして、いくら食べてもお腹をこわすことはない。消化もよい。
アセの葉で巻かれた寿司の上から、包丁でバリバリと音を立てて切る。切り端のところをすばやく、さっと取る。ここが一番旨い。鯖が折り曲がっているので得した気分と、2面に味が滲みているので絶品である。素人は中ほどのきれいに切った部分を食すが、玄人は断然、切り端の部分を狙うのである。
これは古くからの先人達の智恵からなる保存食でもあり、またその年の秋に収穫された新米とその時期の脂の乗った新鮮な鯖が合体した、なんとも贅沢な旬の食べ物である。
紀州は、殆どが山地であり、僅かな平野部と海岸に頼って暮らしてきた。そのため穀物などの栽培には適していない。だから昔から豊かな国ではなかった。そこで徳川家の殿様たちが、家来に命じて何とか貧しい民の食生活を救おうということで、茶粥や色々な保存食を考案させたという言い伝えがある。
陸の幸である米と海の幸である魚に感謝する「秋祭り」にふさわしい「なれ寿司」はふるさとの自慢料理である。昔の人たちの智恵と工夫の生きた芸術品と言えよう。
毎年、秋祭りの頃、紀州から遥々届く宅急便が待ち遠しい。秋の風に吹かれながら、少し冷やした純米酒と「本なれ」寿司をじっくりと味わいながら、遠くふるさとに想いを馳せる。生きている幸せを思いっきり実感する瞬間だ。

posted by Ryoma21 at 21:32 | Comment(0) | 中村義「私のエッセイ雑記帳: | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「人生相談」の回答者を複数に ~相談者の選択幅を広げて~ 私のエッセイ雑記帳(その77)

ライフワーク研究家 中村 義

ある新聞の「人生相談」は、ほとんど欠かさずに拝見している。多くのさまざまな年齢層の男女の、悩み、苦しみ、教えを乞う、疑問・質問などを読ませてもらっている。

それらに対して、専門家、知識人などが的確な回答をされているのであるが、ただ気になるのは、そのひとりの意見や考えによって、相談者のその後の方向性を決めてしまうことの危険性はないのだろうかということである。

というのは、こうした紙面による相談は、面と向かって話をし、双方向でやり取りをしながら、適切なアドバイスをするのと異なるため、ときには正直なところ「本当にそのようなことでいいのだろうか?」と感じることに出くわすからだ。

それを回避するには、少なくとも3人くらいの回答者からの違った意見を併記して掲載することにしたらどうだろうか。この場合、回答者の本名は伏せてA氏、B氏、C氏などとすれば、読み手と書き手の双方にとって支障がないのではと思う。

こうすることで、相談者がそれらの回答内容を比較して、自分自身で選択することができ、より望ましいかたちになるのではないだろうか。かなり難しいかもしれないが、このような複数回答を採用することも、今後の検討課題として欲しいと切に思うのである。新しいかたちの人生相談の誕生を期待したい。

例えば、こんな相談を取り上げて具体的な提案例のひとつとしてみることに。

最近のある新聞の人生相談で「暇な時に何をすればいいのか」という30代の既婚男性からの相談記事が気になった。休日には掃除、洗濯、ジョギングなどをしているが、他に読書や映画などにも興味がなく、午前中からビールや日本酒を飲んでいる。「もっと休日の時間を有効に使いたいと思っているが、何をすればよいかわからない」といった悩みである。

これに対して、ある作家が回答したのが「何をしたいか、自分で探してみたらどうか。探すのも暇つぶしでしょう。しらふの時、じっくりと自分に一体何をしたらよいのか、聞いてみるといい。自問自答して自分に向き合ったら」といったような回答である。

まことに申し訳ないが、これは残念ながら適確な回答になっているとは思えない。もし、私がコメントする立場ならば、
「子供の頃から学生時代を含めて、これまでの人生生活の中で、好きだったこと、やりたいと思っていたこと、途中でやめたが気になること、友達から君はあれが得意だったよねとか言われていたこと、などを書き出してみなさい。

そして、じっくりと眺めてみてください。そうすると、ああやっぱりこんなことがやりたかったのかというヒントに出合います。そう、それが自分で見つけたあなたのテーマなのです。さあ、さっそく始めてみませんか。きっとうまくいきますよ。なぜなら、それは人から言われたことではなく、自分で納得して見つけたことですから。頑張ってください」といったような回答をしたい。

要するに、相談者にしっかりと向き合って、本人自身ができるだけ納得できるような具体的なアドバイスをしてあげることが大切だ。

皆さんからのコメントをお待ちしています。

posted by Ryoma21 at 12:27 | Comment(0) | しなやか広場とは | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする